徳川埋蔵金の存在はあの人物によって証明されていた。
日本の埋蔵金伝説
日本にはいくつかの埋蔵金伝説があり
その中で最も有名なのが徳川埋蔵金。
江戸時代末期
密かに埋蔵したとされる幕府再興のための
軍資金
埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされており
額は360万から400万両
現在の価値にすると
総額6600億円
にもなると言われています。
今回はこの埋蔵金伝説について
いくつかの定義を紹介したいと思います。
徳川埋蔵金伝説のはじまり
事の発端は1868年4月に江戸城が
無血開城となった際
当時財政難に喘いでいた明治新政府は
幕府御用金(ごようきん)を
資金源として期待していました。
御用金とは幕府・諸藩が
財政上の不足を補うため
町人・農民らに対し臨時に上納を
命じた金銀のこと。
明治新政府が城内を捜索したところ
城内の貯蔵庫は空でした。
そのため幕府がどこかに隠したと判断
新政府軍による埋蔵金探しが始まりました。
探索の手は大政奉還当時
江戸幕府の財政を管理、監視する役職である
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)であった
小栗は勘定奉行を辞任した後
(こうずけのくにぐんまぐんごんだむら)
現在の群馬郡倉淵村(くらぶちむら)に
離れて暮らしていたのですが
彼が幕府の財政責任者であったことから
「小栗が幕府の金を持って逃げた」
といったうわさが飛び
更には
「利根川をさかのぼって来た船から
誰かが何かを赤城山の中へ運び込むのを見た」
と証言する者まで現れました。
加えて小栗が江戸城開城に伴う
幕府側の処分者の中で唯一命に関わる
刑罰の斬首(ざんしゅ)となった
ことも重なり
「幕府の隠し金が赤城山に
埋められていることは事実である」
と信じた人々が増え
赤城山の各所で発掘を試みる者も
現れました。
以下のようなものであると定義されました。
徳川埋蔵金の定義
幕府の将来を不安に思った
赤城山麓に埋蔵することが企画された。
しかし桜田門外の変によって
井伊直弼が暗殺された後
軍学者であった
林靏梁(はやしかくりょう)によって
埋蔵が実施。
埋蔵された額はおよそ
360万 - 400万両であるというのです。
しかしこの360万 - 400万両という額は
なにを根拠にして言われているのでしょうか。
それは明治維新に大きな影響を与えた
あの人物だったのです。
あの人物の正体
「行政改革というものは
余程注意してやらないと
弱い物いじめになるよ。
肝心なのは
改革者自身が
己を改革する事だ。」
そう
勝海舟なのです。
勝海舟は幕末明治期の政治家で
坂本龍馬を弟子に迎え入れ
自ら将軍に直訴して開いた海軍操練所に招き
航海術を学ばせるなど
明治維新に大きな影響を与えた人物です。
その勝海舟の日記には驚きのことが
書かれていたのです。
「軍用金として360万両有るが
これは常備兵を養う為の金で
使うわけにいかない。」
軍用金として幕府に360万両あることが
はっきりと記載されていたのです。
これは幕府が軍用金として360万両を
密かに用意していたという証拠になります。
勝海舟は諸外国の侵略から
日本を守るため身分を問わず
能力をある者を取り立てる
という思想を持っていた人物です。
よって日本の未来を鋭い視点で
描いていたに違いありません。
このことを踏まえると360万両が
幕府にあったということは
間違い無さそうです。
では気になるのはその埋蔵金が
どこに隠されているのかということ。
しばらくこのブログでは
その埋蔵金が隠されている
本当の場所を突き止めていきたいと思います。
そのほか埋蔵金についての
定義があったので紹介しておきます。
その他の定義
・金の埋蔵に際しては中国の兵法(へいほう)の1つである
「八門遁甲(はちもんとんこう)」
が施され
各所に偽計(ぎけい)とよばれる
あざむくための手段が
張り巡らされているということ。
・山中にある双永寺(そうえいじ)は
埋蔵時見張り所とされていた。
幕府再興を画策する役を負っていた。
以上の3点。
これについて詳しくは次回の記事で
調査したいと思います。
ということで徳川埋蔵金について
説明してきましたが
個人的には勝海舟が
関わっていたとは驚きです。
埋蔵金についての意見
情報などありましたら
是非コメントで教えてください。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。